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  2. 【2015年7月7日】高槻 寒天雑話 其の二

参考文献

1. Wolfgang Hesse (translated by Dieter H. M. Groschel) : Walther and Angelina Hesse – Early Contributors to Bacteriology. ASM News, 58 (8) 425-428 (1992)
2. Robin A. Weiss: Robert Koch: The Grandfather of Cloning?: Cell 123:539-542 (2005)
3. Hitchens,A.P. & Leikind, M.C.: The introduction of agar-agar into bacteriology, J. Bacteriol. 37:485-493 (1939)
4. 林金雄、岡崎彰夫: 寒天ハンドブック 光琳書院 昭和45年6月1日発行
5. 山中太木: 寒天の鴻恩 寒天に感謝を捧げよう 禅 第375集: 1-5 昭和61年7月
6. 井川好: 近世・北摂における寒天生産について 関西歴史散歩の会 2006年1月月例会(2006)【平成18年1月8日(日) 高槻市総合市民交流センター5階視聴覚室での講演まとめ】
7. 野村豊:寒天資料の研究【古藤勘平、黒田貞一、弓樹幸四郎、橋本佐太郎、石田和夫、石田与三治、各氏所蔵古文書】
8. Brock, T.D.: “Robert Koch”, ASM Press (1999)
9. 尾崎直臣:寒天起源説の疑問点について 駒沢女子短期大学研究紀要7:13-17,1973
10. 尾崎直臣:寒天起源説についての一考察 日本風俗史学会誌15(2-3):28-44,1977

寒天の誕生

4代将軍徳川家綱の頃、正保(1644~1647年)または明暦(1655~1658年)あるいは万治(1658~1660年)頃の極寒の日のことです。下に示した「元禄国絵図 山城国」の赤丸辺り、二条城の南、伏見城の南西方向、山城国紀伊郡伏水駅御駕籠町という所に、美濃屋太郎左(右)衛門と称する者が住んでいました。ある日のこと、その美濃屋方に参勤交代の殿様が宿泊しました。伏見に入った殿様に太郎左(右)衛門は殿様に心太料理をお出しし、その日に残った心太が夜間に凍結したのちに乾燥してしまったというのです。太郎左(右)衛門はこの乾燥した心太を再び煮込んで、食したところ、海草特有の癖が消えていたことから、「心太の干物」の凍結乾燥法を思いついたといいます

この殿様は島津光久候【2代薩摩藩主:元和2年6月2日(1616年7月15日)~元禄7年11月29日(1695年1月14日)】であるとされています。寛永元年(1624年)に島津光久候が徳川幕府の命によって江戸に移住しましたが、寛永14年(1637年)、島原の乱勃、病床の父・家久に代わりに参陣するために帰国したそうです。以後、これを参勤交代の先駆けとして、光久は薩摩と江戸の間を行き来したそうです。島津光久候の参勤旅程の中で、真冬に移動したのは明暦3年10月6日鹿児島発-同年12月10日江戸着(西暦1657年10月6日発-翌年1月13日着)だけです。美濃屋に宿泊したのは極寒の日のはずですから、よほどの異常気象でもない限り、寒天発明のきっかけとなった殿様の宿泊はこれ以外には考えにくいのです。通常、参勤の旅程は上り下りとも気候のよい時期に行われていたようですが、この年には江戸で大火があったため、春の参勤を断念しており、年の暮の出発となったようです。寒天の発明に江戸の火災が関係しているというのは皮肉なものだと思います。

寒天は夏の食物であったと思われますが、冬のこの日、美濃屋がなぜ殿様の料理に心太を出したのかは興味のわくところです。極寒の日ですから、もし煮凝り料理を出したとしても、わざわざ心太を加える必要はなく、動物性のゼラチンで用は足りるはずです。山中太木博士は、「寒天の鴻恩(『禅』昭和61年7月号)」の中で、「美濃屋の女将が島津光久候の心太好きを心得ていた」と推測しています。当時、心太は庶民の食用にも供されていたもので、慎重に吟味すべき殿様の料理に心太を出したことを考えると、説得力のある説です。
 
 このような寒天発明の経緯はどのような根拠をもって語り継がれているのでしょうか。寒天ハンドブックによれば、「凍(こおり)瓊脂(ところてん)の説(桂香亮著、大日本水産会報告書)」に以下の記述があり、「年一年より盛大に至りし元治初年頃より世の変遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衛門なる者は今(明治6年)に於いてこの業を営めり・・・」とあることから、明治6年頃に美濃家を訪ねて古文書などを調査しての記述であると思われるので、信憑性が高いとしています。

「凍(こおり)瓊脂(ところてん)の説(桂香亮著、大日本水産会報告書)」抜粋

『沿革 夫れ凍瓊脂製造の濫觴(ランショウ)と唱え来るや明暦年間島津大隅守幕府へ参勤の途次山城国紀伊郡伏水駅御駕籠町(美濃長左衛門十一世の祖)美濃太郎左衛門なる者方へ休泊ありたりき一日 太郎左衛門 石花菜(テングサ)を煮詰め以て膳部の一部に供し其残余を棄却せしに沍天厳寒(コテンゲンカン)の候忽(タチマチ)氷結しては宛も干物の如き凝質に化せり 於是太郎左衛門甚奇異の想ひを起こし百方工夫を運らし形状(長方形)を作為し以て瓊脂の干物と名く食物の一部に置くと云ふ 降りて万治年間帰化の僧隠元なる者寒中に製するを以て之を寒天と称すと云ふ 爾来諸国へ販売し(現今支那に多く輸出す)明和年間までは伏水特有の名産たりしが是より経年同業者増加しついに二十戸余りに及び摂・丹地方に広まる 年一年より盛大に至りし元治初年頃より世の変遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衛門なる者は今(明治6年)に於いてこの業を営めり・・・』

その後、高槻で寒天製造法が改良されるまでの約130年間、寒天は伏見の「心太の干物」あるいは「凍(こおり)瓊脂(ところてん)」として諸国にも販売されたようです。

平成30年2月5日 訂正
つづく