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  2. 【2015年7月13日】高槻 寒天雑話 其の三

参考文献

1.Wolfgang Hesse (translated by Dieter H. M. Groschel) : Walther and Angelina Hesse – Early Contributors to Bacteriology. ASM News, 58 (8) 425-428 (1992)
2.Robin A. Weiss: Robert Koch: The Grandfather of Cloning?: Cell 123:539-542 (2005)
3.Hitchens,A.P. & Leikind, M.C.: The introduction of agar-agar into bacteriology, J. Bacteriol. 37:485-493 (1939)
4.林金雄、岡崎彰夫: 寒天ハンドブック 光琳書院 昭和45年6月1日発行
5.山中太木: 寒天の鴻恩 寒天に感謝を捧げよう 禅 第375集: 1-5 昭和61年7月
6.井川好: 近世・北摂における寒天生産について 関西歴史散歩の会 2006年1月月例会(2006)【平成18年1月8日(日) 高槻市総合市民交流センター5階視聴覚室での講演まとめ】
7.野村豊:寒天資料の研究【古藤勘平、黒田貞一、弓樹幸四郎、橋本佐太郎、石田和夫、石田与三治、各氏所蔵古文書】
8.Brock, T.D.: “Robert Koch”, ASM Press (1999)

寒天の命名者

伏水の「心太の干物」あるいは「凍(こおり)瓊脂(ところてん)」を「寒天」と名付けたのは、中国明代に福建省福州府福清県東林村で生まれた隠元禅師であるといわれています。この説もおそらく先に記した「凍(こおり)瓊脂(ところてん)の説(桂香亮著、大日本水産会報告書)」に由来するのではないかと思われます。
 
 隠元は1592年生まれで、1620年 29歳で中国の黄檗山の鑑源に勧められて出家したそうです。1644年53歳で退山し、1646年に再び黄檗山に入ったということです。その後、長崎興福寺・逸然性融の請願に従い、1654年 63歳で弟子20名余とともに厦門を出帆、長崎に着き、興福寺次いで崇福寺に移り、大阪高槻の普門寺に長く滞在したとされています。1658年、普門寺から将軍家綱に謁見すべく江戸に向かったといいます。その結果、将軍家綱より1661年に宇治大和田に寺域を賜り、黄檗山万福寺を開創したそうです。

 隠元が開山した万福寺が寒天発明の地である伏水に近いとはいえ、隠元がどのようにして寒天に出会い、美濃屋太郎左衛門に「寒天」命名を告げたのかを知りたいものです。 山中博士は「宇治の万福寺に参詣した美濃屋太郎右衛門はおそるおそる事の次第を話して、寒晒し心太のことを尋ねて教えを乞うた。禅師は具に経緯を聞いた上で考えられて寒晒しの心太か・・・そりゃあ『寒天』ぢゃ!と簡明に一喝されて決まった・・・」と想像しています。「寒天」とは日本語でも中国語でも、「冬の寒空」を意味します。こんにゃくなどとともに仏家の食に適しており、冬の寒空に鍛えられた心太の干物(凍心太)に「寒天」と名付けられた隠元禅師の才能に敬意を表するところです。

 この隠元禅師が来日後、滞在した普門寺が高槻市富田町の地にあることことから、寒天と高槻のより深い縁を感じるのは、高槻生まれの高槻育ちの筆者だけかもしれませんが、ご興味をお持ちの方のために、高槻市役所のホームページの記述を以下に記しておきます。

【参考】普門寺

左と中央の写真は著者撮影、右の写真は高槻市ホームページより拝借

高槻市インターネット資料館より

普門寺は、慈雲山と号して臨済宗妙心寺派に属し、釈迦如来と十一面千手観音を本尊とします。明徳年間(14世紀末)に僧・説厳が創建したと伝えられ、永禄年間(16世紀後半)には、室町幕府の管領細川晴元や14代将軍足利義栄が滞在、普門寺城とも呼ばれていました。また江戸時代初期には、中国・明の高僧、隠元が宇治に万福寺を開くまでの間、ここに留まりました。柿葺き(こけらぶき)の屋根が美しい重要文化財の方丈(本堂)は、永禄期の建築で、襖絵は狩野安信の水墨画、欠損していた襖には南画の大家、直原玉青画伯の「淀川右岸天王山鵜殿前島菖景」が描かれています。また、名勝の庭園は江戸時代初期の枯山水庭(かれさんすいてい)で、玉淵(ぎょくえん)の作庭と伝えられ、境内の一角には、細川晴元の墓と伝えられる宝篋印塔があります。
 ・方丈 昭和52年1月、国の重要文化財に指定
 ・庭園 昭和56年8月、国の名勝に指定
 ・平成12年12月、境内ほぼ全域が国の名勝に追加指定

つづく