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  2. 【2015年7月28日】高槻 寒天雑話 其の五

参考文献

1.Wolfgang Hesse (translated by Dieter H. M. Groschel) : Walther and Angelina Hesse – Early Contributors to Bacteriology. ASM News, 58 (8) 425-428 (1992)
2.Robin A. Weiss: Robert Koch: The Grandfather of Cloning?: Cell 123:539-542 (2005)
3.Hitchens,A.P. & Leikind, M.C.: The introduction of agar-agar into bacteriology, J. Bacteriol. 37:485-493 (1939)
4.林金雄、岡崎彰夫: 寒天ハンドブック 光琳書院 昭和45年6月1日発行
5.山中太木: 寒天の鴻恩 寒天に感謝を捧げよう 禅 第375集: 1-5 昭和61年7月
6.井川好: 近世・北摂における寒天生産について 関西歴史散歩の会 2006年1月月例会(2006)【平成18年1月8日(日) 高槻市総合市民交流センター5階視聴覚室での講演まとめ】
7.野村豊:寒天資料の研究【古藤勘平、黒田貞一、弓樹幸四郎、橋本佐太郎、石田和夫、石田与三治、各氏所蔵古文書】
8.Brock, T.D.: “Robert Koch”, ASM Press (1999)

医用寒天の容器の工夫

寒天は食用・工業用として著しい役割を果たしているだけではありません。医学・医療の分野、特に細菌学の発展における寒天の貢献にはさらに著しいものがあります。寒天がなければ細菌学の発展は遅れたであろうし、寒天平板内(ゲル内)沈降反応を用いた抗原や抗体の解析にはじまる免疫学、アガロース平板ゲル電気泳動による遺伝子解析法にはじまる分子生物学、軟寒天平板細胞クローン化技術にはじまる細胞生物学、ひいては現在の生命科学の発展、iPS細胞の発明もはさらに遅れたでしょう。

病原細菌の性質を明らかにする場合に、寒天平板を作り、その上に細い白金製の針金を用いて細菌を塗り拡げて、純粋に一種類の細菌を分離するクローニングと呼ばれる操作をします。この操作技術の開発については、18世紀の末にコッホをはじめとする細菌学者たちの工夫と努力がさまざまな形で紹介されています(Robin A. Weiss: Cell 123:539-542, 2005)。それらのなかで、コッホの研究室の研究者であったヘッセ医師に寒天を応用した細菌培地のアイデアを提供したアンジェリナ・ヘッセ夫人の話は有名です(Wolfgang Hesse, ASM News, 58: 425-428, 1992)。この経緯は他説に譲ることとして、もうひとつ寒天が細菌学の発展に寄与するために必要であった発明を紹介します。それは、ペトリ博士が考案した細菌培養器ペトリ皿です。ペトリの発注でこの容器を作ったガラス職人の技術は卓越しており、彼が作った容器は空中に浮遊する埃に付着した雑菌の混入を防ぐことができ、しかも寒天平板培地の作製を容易にする画期的なものでした。

HitchensとLeikind(J. Bacteriol. 37:485-493, 1939)は、科学分野で働く人には二通りあるようにみえるとしています。それをネックレス作りの過程を引用して、ビーズを集める人とビーズに糸を通す人に譬えているのです。Koch博士は、彼の弟子たちが集めた様々な資源をまとめてネックレスを作るようにすばらしい偉業を成し遂げたが、ヘッセ夫人やペトリ皿を作製したガラス職人のようにビーズを集める作業は目立たないが、ネックレス作りには極めて重要な作業であるというのです。私たちの周りにも優れた技術員がおり、私たちの発見や発明のためにビーズを集めてくれていることを改めて紹介し、感謝の意を表したいと思います。

さて、寒天の容器がいかに高槻と関わるかですが、少々無理もあるように感じつつ、紹介したいと思います。第2次世界大戦中には寒天の輸出が規制されたという記載があります。証拠は持ち合わせていませんが、他国におけるワクチン製造や細菌兵器開発を抑止する目的もあったのではないかとも考えることができます。当時のワクチン製造を考えると、細菌を大量に培養しなければならず、大量の寒天が必要になるため、ペトリ皿のように寒天平板を作る技術は非常に有用であったと考えられます。しかし、ペトリ皿は平面に置くため、場所をとりしかも重ねて置くと温度のむらができるため、多くを重ねるのは得策ではありません。そこで、考え出されたのが大型の試験管の中に平板を作る方法です。

現在でも斜面培地とよばれる培地があり、寒天溶液を斜めに置いた試験管の中にいれてゲル化させ、培養時はこれを立てて使う。前述の大型試験管は壁面の一部が平面になっており、そこに寒天平板を作ることによって、寒天の消費量を抑制しつつ、効率よく細菌を培養できるというものです。この吉津式大試験管(上写真)を発明したのは吉津度医師です。

吉津(左写真)は1878年1月1日に広島県吉津村で生まれ、大阪で苦学の末、26歳で医師試験に合格し、日露戦争に軍医少尉として従軍し、帰国後、大阪府会議員・大阪市会議員・衆議院議員を歴任し、大阪細菌研究所と附属梅田病院(大阪市北区万歳町)を設立した人です。研究所と附属病院は戦火で焼失してしまいましたが、吉津が高槻に設置した大阪高等医学専門学校は、大阪医科大学として現在も医学や看護学の教育研究の任を果たしています。

 吉津式大試験管はペトリ皿のように現在使われることはありませんが、彼が細菌学の発展に寄与しようとした姿勢は今も医学医療の発展において受け継がれているのです。そして、吉津が国内でも海外でも活躍できる医師を養成しようと建てた建物のひとつ、この歴史資料館が入っている大阪医科大学別館は、国の登録有形文化財として高槻の地に残されています。

まとめ

最後に、京都伏見でその製造法が発明された「心太の干物」に、長く高槻富田の普門寺に滞在した隠元禅師が「寒天」と命名したこと、この寒天の製造法が高槻原の宮田半平によって改良され全国に広がったこと、その寒天を有効に使うための容器の工夫をした吉津度が高槻の地に高等医育機関を設置したこと、をご紹介しました。縁を語るには多少の無理があることは承知しつつ、生命科学の発展を格段に促進した寒天とその容器、そしてそれらの製造法の開発にかかわった人々への感謝の気持ちをもちたいものです。