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  2. 【2015年4月13日】昭和のはじめ、開襟シャツは高槻から発信された?其の一 - 開襟シャツと大阪医科大学 -

昭和の初め、今でいうクールビズの服装である開襟シャツの文化は、高槻から全国に発信されました。さて、近隣の大学からクレームがつく可能性もあり、少々無理のあることを承知で、この命題の説明を試みようと思います。

本邦の文明開化と称する政策は、西洋からさまざまな文化や技術の流入を促しました。社交場に向かう西洋人は、異国の同胞に敬意を払い、正装して路を闊歩したのです。当時の日本人が直接目にする文明的な?西洋人や写真に現れる西洋人は、皆正装していたことでしょう。そのようなことから、文明的な服装とはハイカラーにネクタイを締めることだと勘違いされたのかもしれません。明治の終わり頃、ハイカラーからソフトカラーに変化したものの夏の海浜で背広にネクタイという何とも暑苦しい家族写真が私の手元に残されています。

大量の石炭を消費した文明開化の時代から百年以上が過ぎて、地球上の化石燃料や鉱物ウランの有限性から、省エネルギーが求められるようになり久しく、クールビズという言葉が定着しました。如何に新たなエネルギー源が発見されようと地球上にその源を求める限り、省エネルギー活動が必要であることは間違いなく、やや廃れた感のあるクールビズという言葉もその意味するものは、今後も残るのだと思います。

 さて、クールビズが始まると、上着を脱いでネクタイを外し、襟元のボタンをひとつ外す姿が一般的です。日本の夏は高温多湿であるため、夏にはネクタイをはずし、胸元を開いて裾をズボンの外に出すことによって通気をよくし、体幹表面の発汗による冷却効率を高めようという発想です。この発想は、遠く昭和の初め頃に一般化しており、実用的に工夫されたのが戸田式開襟シャツです。「開襟シャツ」とは、高温多湿の夏用ワイシャツの一種、女性のブラウスに似た男性用のシャツで、襟のボタンがなく、襟が上着のように開いたもので、裾をズボンの中に入れず、ネクタイを絞めずに着用するものです。上着を着る時には開襟シャツの襟を上着の襟の上に重ね、上着の襟の汚れを防ぐ着方もあったようです。いまでも、中学校や高等学校の夏の制服として汎用されていますが、この開襟シャツが、大阪府高槻市に位置する大阪医科大学に深い縁があることを知る人はそう多くはないと思います。

この開襟シャツの発想を科学的な思考をもって改良し、戸田式開襟シャツを作り、夏の正装として日本中に広めたのは、大阪府高槻市にある大阪医科大学の前身大阪高等医学専門学校の第二代校長 戸田正三博士でした。戸田博士は、大阪高等医学専門学校の校長を務めていた10年間のうち、5年間は京都帝国大学の医学部長との兼務でした。この時期に、博士は戸田式開襟シャツを発明し、日本全国に広めたのです。「大阪医科大学50年史」には『戸田正三は日本風土に適応する衛生・公衆衛生を研究し、「身康即神明」をモットーとし、実際医学の教育にあたり、豪放磊落にして、「仁・智・勇は強者の鼎、仁なき智・勇は虎狼の輩」と教えた』と記されている人物で、戦後は新制金沢大学の学長を12年間も務められました。

つづく